第一章イオニアの華

二、騾馬の王



十二

 引き絞った弓は限界まで力を矯めてから放たれる。右腕と左腕のバランスが釣り合い呼吸が調和した瞬間を見極められるようになるのが、弓の巧者になる第一歩と言えるだろう。
 メディアという国は既に爛熟の時を迎えていた。熟柿が落ちるのを見守っている人間が、アンシャンに二人、メディアに一人居た。全軍を集結させたとしても、まだメディアの軍事力には敵わぬ。人を育て、力を蓄え、技術を磨いて。矢を放つ時をじっくりと見定める必要があった。急いては事を仕損じる。やがて失速する時を狙い、一撃で仕留めるのだ。そう言い聞かせる父王カンブージャは、恐らくクルの知らぬところで数々の辛酸を舐めたのだろう。それが息子には良く判った。国力というものをはかる時、それは国民の数だけカウントしたとしても意味がない。兵士として使える人間は、単純に計算しても総人口の半分に満たぬ。男女の比率だけでなく、幼老の者までもを従軍させることを最初から考えていては、戦いに敗北する可能性を高めるだけだ。
 どれだけの期間軍事に集中しても生活を破綻させずにいられるか。ベースとなる首都の守りを固める兵士も無論必要である。メディア王宮を占領して首都を奪われたとなっては目もあてられぬ。軍隊の人数だけでなく質をも向上させねばならぬ。個人技がどれだけ光ろうと、それだけでは話にならぬのだ。戦争とは、大量の物資や人員を消耗するものである。決闘ならば個人の武勇が重要だろうが、人海戦術ともいうべき戦争では、それは局所的勝利にしか繋がらない。全体を見渡す眼力と全軍を破綻させることなく経営する能力がなければ、戦いは負けである。だが、戦いに勝ち得て、何を手に入れることが出来るかという問いを傾けられたなら。それを手にする前に目の前に累々と横たわることになる屍を見ることを忘れてはならぬ。それが味方のものか、敵方のものかは勝ち負けに関わってくるだろう。しかし。失われた命は戻ることはない。大国が小国を侵略することは、悪であり、小国が大国を攻めることは義である。という。しかし、小国が大国に勝利して、かつそれを侵略するのであれば、それは義と呼べるものだろうか?

 クルが騎馬隊の組織を開始して、十数年の歳月が流れた。この年、リュディアではクロイソスが王位についた。クルの祖父アステュアゲス王の年若い妃アリュエリスの兄弟にあたる。彼は世界で初めて貨幣鋳造を行った人物でもある。同じ年、ラケダイモン(スパルタ)ではレオニダスの父アナクサンドリダス二世がアギス家当主となり王位を継いだ。歴史の表舞台では役者の交替が行われていたのである。リュディアとメディアの王家の婚姻による講和から十五年が経過していた。
 かつて目元涼しい青年だったクルも壮年を迎えて、気力知力体力ともに充実した日々を送っている。懸案だった騎馬隊も、まだ不足ながら少しずつ規模を拡大していた。
「殿下」
 勇猛さよりも穏やかさを感じさせる声がクルを呼んだ。王佐であり、クルの親しい友である。クルの父王カンブージャからの遣いであった。
 カンブージャは王宮の中庭にいた。白いものが多くなり、肌には皺が増えている。六十半ばになろうとしているが、怜悧さを失わぬ眼光は鋭さよりもやわらかさが優っていた。結局マンダネ以外の妻を娶ることがなかった父だが、クルには複数の妃を持たせた。これからのことを考えての布石であろう。カンブージャがクル以外に子を持っていたか否か、記録には残ってはいない。マンダネという王女を妻として得た以上、主家であるメディア王アステュアゲスへの配慮もあったろうし、長男クルを殺害されかけたという事実を考えれば、それ以上子を持ったとしてもメディア王につけ狙われた恐れがある。恐らくは、それを懸念して子を作らず妻を求めなかったのではないだろうか。クルは父に深い尊敬を込めた眼差しを向けた。
「父上」
 凛々しい佇まいに目を細めて頼もしそうに長男を眺めた父王は、ゆったりと微笑んだ。
「これからのことはそなたに任せる」
 穏やかな微笑みのまま、カンブージャはクルを驚愕させる爆弾を放った。マンダネと二人、隠居してゆっくりとした日々を楽しもうと思う。そう告げた父は、既に確乎たる意志を固めているようであった。クルは抗ったけれども、結局は父王の意志に従わざるを得なかった。リュディアを震撼させる預言の成就は、もうすぐそこまで近づいていた。

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