第一章イオニアの華

二、騾馬の王



十四

 メディア全軍が出撃の用意を整えている間に、アンシャン軍は既にかなりの距離を進んでいた。クルが祖父である王アステュアゲスに伝えさせた、その言葉の通りに。間に合わせの隊ではないことは、一目で知れた。磨きあげられた武具、整った隊列。衣類は簡素ながら清潔で、秩序のある隊であることが一目で知れる。しかし。とクルは思う。このうちの何人が永遠に家族の元へ戻れなくなるだろうか、と。犠牲は最小限が望ましい。しかし皆無ではありえまい。叶うのであればこのような戦いなど、ない方が良いのだろう。しかしアンシャンを抑えつけてきたメディアのやり方−−クルの祖父アステュアゲス王はそれが当然であると思っているに違いない−−というものを考えると、その軛から逃れたいと切実に願ってきた父カンブージャやアンシャンの民に思いを致さぬ訳にはいかぬ。租税は軽くはないが、メディアが要求する程度の搾取には耐え得るだろう。だが租税の重さよりも人としての存在の重さを、一つの民族として一つの民族の下にされることを、クルの父カンブージャは良しとすることは出来なかった。それを民に認めさせることは出来ても、己自身に認めさせることが出来なかった。クルはそれをいつも間近に見ていた。父がメディア王女との間に生まれた自分に未来と希望を託す姿を。
「お前には辛い選択を強いることになるが」
 そう遠慮がちに告げる父は、親としての期待が過剰になっていることを自覚しているようだった。メディアとアンシャンとの間に生まれたお前だからこそ理解出来ることがあるだろう。その微笑みは、クルのがっしりした背の後ろに、まだ見ぬ未来の夢を描いていた。

 メディアが軍備を整えている間に、「迎え」が来る前に。クルは辿り着いていた。祖父が待ち受けるメディアに。目端の効く者はアンシャン軍が見える前に脱出を試みている。
「逃げる者を追う必要はない。たとえ外部に救援を願ったところで、援けは来ない」
 確信に満ちたクルの言葉を疑う者はない。
「殿下」
 隣に控える王佐アラスパスが控えめに声を掛けた。頭を廻らし視線で先を促す。口ごもりながら言葉を続ける。
「御前に伺候したいと願い出た者が」
 クルの目がきらり。と光った。

 跪いたのは、まだ若い青年であった。年齢は三十になるかならずか。目を伏せて静かに佇む姿からは、裏切り者にありがちな暗さはない。
「お前の望みは?」
 一瞥も与えず口調も変えずクルは訊ねた。その声に閉ざされていた瞳が開いた。
「メディアの滅亡を」
 訝しげなクルに青年は語った。私もアンシャン同様、虐げられた民でございます。と。メディア転覆の機会をずっと待っていたという。
「その為に預言のお子、貴方様をお待ちしておりました。メディアを倒せるのは貴方以外にはおりませぬ」
 熱っぽく語る青年を醒めた目で見遣ってクルは踵を返した。肩ごしに投げつけられた台詞は、お世辞にも心が篭もったものとは言えぬ。
「死力を尽せ。さすればお前の宿願叶う時もあろう」
 去り行くクルに追い縋る青年の声は、悲愴でさえあった。
「お待ちを、クル様。私はメディア軍の弱点をつかんでおりまする」
 一瞬立ち止まったものの、クルは振り向くことはなかった。
「メディアの弱点など私はとうに知っておる。お前如きに聞くまでもない」
 情報が欲しくない訳ではない。いや寧ろ咽喉から手が出る程に欲しい。しかし手土産持参で投降する下衆をここでこれを許容することは、裏切りを奨励することになる。今はまだアンシャンに裏切る者は居ない。だが状況が変化したとき。一度裏切りを受け容れた事実があれば、それは全軍に望ましいこととして受けとられかねぬ。軍の規律を考えれば、この青年を容れる訳にはいかぬ。
 アラスパスが青年の方をちらり。と見遣った。肩が落胆の大きさを示している。クルに受け容れられなくてはアンシャンに入れる筈もなく、脱出した今となってはメディアに戻れる筈もない。そうなると、次の行動は一つである。青年は懐に隠し持っていた剣を鞘から抜いてクルの背後から斬りつけようとした。
 かん。
 鋭く金属を叩く音が響いた。青年から目を離さずにいた王佐アラスパスがその剣を弾いていた。
「痛っ!」
 衝撃でその剣は宙を舞い、少し離れたクルの足元へと落ちた。
「二枚舌を使い分けようとする者を信用する程私はお人好しにはなれぬ」
 図星をつかれて口ごもり。力なく項垂れた青年の首筋に、冷ややかな言葉が滝のように落ちる。それは霧氷のように幻想的でいながら、鉄剣の鋭さを持っていた。
「人を謀ろうとする者は殊更に人をまっすぐ見つめるものだ。人を謀るつもりであるなら、自分ごと謀るつもりで話せ」
 隣に控えたアラスパスに視線を与える。王佐が肯くのににやり。と微笑みを与えて、衣を翻す。来客は一人ではなかった。

 二人目の来客は、ハルパゴスではなかった。線の細い体をたっぷりとしたメディア風の華麗な衣に包み、片膝をついている。
「ハルパゴス殿は見事アンシャン迎撃の軍の指揮官として任命されました。メディア軍が大打撃を受ける瞬間を見計らってこちらに寝返ります」
 低めだがどこか細さのある声は、細い体格と相俟ってまるで女性のもののようだった。しかし女性にありがちな、なよなよとした湿り気とは一線を画している。寧ろ、男にはない針金の鋭さがその体には培われているようだ。クルはそう判断した。
「判った」
 踵を返そうとしたクルの耳に、追いすがるような声が届いた。
「もう一つ。昨夜のことでございますが。かつて、貴方を庇って釈放を説得したマゴス(僧侶)は、王アステュアゲスにより串刺しの刑を蒙りました」
 付け加えて、再び顔を伏せる。細い肩が小刻みに震えているのが見えた。
「そなた。あのマゴスの娘か」
 マンダネを産んだアステュアゲス王の妃の一人…クルの祖母の寵愛を受けたマゴスが、妃の寵愛を損ねぬ為の行動であった。とクルはそう聞き及んでいる。しかし、アステュアゲス王の最終判断に大きな力を与えたことは事実であろう。娘は小さく肯いた。
「我らは、明日メディア軍と交戦する。そなたは己が手で敵を討ちたいと願うか?」
 けしかけるでもなく、つきはなすでもなく、その言葉は娘の上に降って来た。迷いも躊躇いもない、凛とした眼差しがクルを捉えた。娘は徐に口を開いた。

 メディア軍は戦場に展開していた。アンシャン軍は既にその前に布置を終えている。今回は騎馬隊を後ろに退かせ、クルは視線を遠くメディア王宮へと投げた。先頭は比較的まとまった隊形をとった歩兵である。各自長槍を一つ短槍を一つと、盾に剣を持ち、簡単な甲冑を身につけている。対するメディアは機動性に優れた騎馬隊が先頭であった。
「殿下」
「焦る必要はない」
 戦闘開始の合図が辺りに鳴り響いた。逸る兵士が全力で疾走を開始している。意味のない雄叫びが響いて、メディア騎馬隊もまた、前進を始めた。指揮官の数人はアンシャンの歩兵隊を嘲笑うように、殊更に疾走を開始した。
 進軍のスピードに、ばらつきがあった。アンシャン軍はほぼ一列で多少の波はあるにせよ、ある程度の範囲に収まっている。しかし逸るメディア軍には突出した箇所が幾つか認められた。それを危険だと見た者はいたが、戦闘が開始された今となってはどうする術もない。指揮官にそれが伝わっていれば退却命令が出される可能性もあるだろうが、その兆しは全くなかった。
「アラスパス!」
 鋭くクルが王佐の名を呼んだ。アラスパスがさっと右手に掲げた旗を力強く振り始めた。
 ずざざざざ。地を引きずるような音が響く。
「うおおっ?!」
「なんだ、何が起こったんだ?」
 メディア軍先頭集団の一部はそのままアンシャン軍へと雪崩れ込んだ。そして突出しすぎていた一部の騎馬隊は、突如として地面から飛び上がった縄によって馬の脚を絡めとられ、その場に落ちた。後ろから続いていた部隊は突如として視界が開けたことを訝ったが、その理由を僚友の凄まじい悲鳴によって理解した。落馬したあと、乗馬の蹄によって腹を蹴られ、内臓を傷つけられたものもいる。抜き身のままの剣や短長の槍…味方の持っていた武器によって重傷を負った者もいる。敵のそれでなく己の血に塗れた精兵の姿は、凄惨を極めていた。顔や足などを潰された体もあった。その顔つきは断末魔の凄まじさを改めて思わせた。

 戦闘開始とともに、メディア軍後方からも鬨の声が上がった。メディア軍中枢は後ろからの声に戸惑いを見せたが、それがアンシャン騎馬隊の襲撃だと気づくまでに然程の時間を必要とはしなかった。
「クルめ…」
 苦々しげに吐き捨てたのは「建築家」だった。クルにまるめこまれて帰国した父は、アステュアゲス王の不興を買って耳と鼻とを削ぎ落とされた。まるで化け物のような姿にされた父は息子に、クルに対する報復を命じたのである。しかしこうもあっさりクルに裏をかかれるとは思ってもみなかった。戻れば王が彼を父と同様厳罰に処すだろう。彼は一瞬で行動を決めた。直ちに軍を離脱したのである。混乱の最中でそれを見咎めた者は居なかった。いや殆どが投降し、また逃走を図っていた。同じ穴の狢は、メディア全軍にいたのだった。
 まず輜重隊を押さえよというクルからの命令を、騎馬隊指揮官は忠実に実行した。食糧や武器を抑えられては抵抗もままならぬ。こうして戦闘開始からいくらも経たぬうちに、メディア全軍はクルの掌握するところとなった。半数以上の者がメディア軍総指揮官ハルパゴスに従ってアンシャンに寝返り、残りのうち大多数の者は戦意を失って投降し、また一部の者は戦線を離脱した。多少の抵抗はあったものの、戦いが決着を見るまでに、一日は掛からなかった。

 静まり返ったメディア王宮は、もぬけの殻と言って良かった。力を失った王が玉座にもたれかかっている。ハルパゴスはちらり。と王を見遣った。ざまあみろ。と言ってやるつもりだった。だが、今はどこか虚しい。宿願は叶った筈だった。しかしこの胸の空虚さを埋める術を、彼はどこにも見出すことは出来なかった。
「ざまぁねえな、アステュアゲスよ」
 どこか荒んだ声を漸く搾りだす。焦点を失っていた目が目標物を見付けたようにハルパゴスを見据えた。意外な程の冷静さに、思わずハルパゴスは唾を飲みこむ。
「愛育した孫によってその座から追い落とされ、国王から奴隷の身分になり下がった気分はどうだ?」
「お前はあれ(クル)のしたことを自分の手柄だと思うのか?」
 一瞬言葉に詰まりかけ、しかし思い直した。
「そうともよ。お前の孫に叛旗を翻すよう促す手紙を書いた。そしてお前に不満を持つメディア貴族を説いて背くよう働きかけた。当然このハルパゴスの手柄よ」
 倣岸不遜を装いふてぶてしく言ってみる。
「お前は愚か者だ」
 項垂れたままの王が呟いた。もしそれが真実自らの手でもたらされたものであるなら、自分が王になれたろうに。あの料理のことを根にもってメディアの同胞をアンシャンの奴隷にしたのか。と。その言葉を聞いたハルパゴスは笑い飛ばした。
「このハルパゴスがそれを行えば、それは単なる簒奪に過ぎぬ。預言という運命を背負った子、そしてお前の孫だからこそ。大義名分が成り立つ。そしてお前も他人ではなく、孫にしてやられた哀れな道化に成り下がるというわけだ」
 我が子の復讐を終えたハルパゴスは哄笑した。その脳裏に、最早永遠に奴隷にも主人にもなり得ぬ少年の、在りし日の輝くような笑顔が浮かぶ。その後ろには今は亡き妻の慈しむような微笑みが見える。哄笑は次第に鳴咽に変わっていった。長い夜の終わりであった。
 かつて王だった男は、その姿を呆然と見つめていた。

 クルは、祖父に勝利した。いくつかの文献に、その後のアステュアゲス王の処遇について書かれている。いくつかは処刑したとし、またいくつかには死ぬまでその面倒を見たとある。クルの母でありアステュアゲスの娘であったマンダネがその時存命であったかどうか不明だが、もしマンダネが存命であったなら、その助命を願ったに違いない。
 クルはメディアとアンシャンを統べる「王」となり、アンシャンはメディアの軛を逃れた。「アケメネス朝ペルシア帝国」はカンブージャの死とクルの登極を以って成立とされる。それはクルのメディア征服から二年ほど後の、紀元前五五〇年のことであった。

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