第一章イオニアの華

二、騾馬の王





 リュディアのメルムナス家歴代の王は迷信深いのか、信心深いのか。デルフォイに対する献納品の数も神託を乞うた数も膨大なものであった。或いは神託に踊らされた家と言えるかも知れぬ。初代ギュゲスにしてからが神託のお陰で地位を保ち身を守ることが出来た訳であるし、当然といわれればそうかも知れないが、その数人の王の中でも神託を好んだのは最盛期の王クロイソスと言って間違いないだろう。
 王には二人の子が居た。一人は言葉を発することが出来なかったが、もう一人は同じ年頃の子の中でも飛びぬけて優れており、また闊達な性格で誰からも好かれ、王位継承者として国中の尊敬を集めていた。名をアテュスと言う。一夜、クロイソスは夢を見た。アテュスが鉄の槍に刺されて死ぬ夢である。恐ろしさのあまり飛び起きた王は、たっぷりと冷汗をかいていた。最愛の息子が死ぬ夢が少なからぬ衝撃を与えた事は想像に難くない。王は急ぎ嫡子の婚礼の準備を整えて軍からは遠ざけ、それだけでは済まず槍は勿論それ以外の武器もすべて片付けさせた。「眠りの森の美女」の父王が、姫にかけられた呪いの成就を怖れて糸巻車を国中からなくしたように。彼の全てを受け継ぐであろう息子が、誤って死ぬことがないようにと。

 将来を嘱望された王位継承者の盛大な婚礼が営まれたその夜。
 プリギュア人アドラストスと名乗る一人の青年が嘆願者の証であるオリーブの枝を持って現れた。誤って兄弟を手にかけてしまい、殺人者として祖国からも父からも追われる身だという彼を、王は温かく迎え入れ、その穢れを祓いたいという青年の求めるままに、願いを叶えた。婚礼の最中に殺人の穢れとは不吉であると重臣の中には眉を顰める者も居たが、弱者の嘆願を拒む程に王は冷酷ではなかった。作法に従ってクロイソス王は祓いを済ませ、その身の安全と生活とを保障した。彼の到来が幸をもたらすことを願って。
 婚儀は青年アドラストスによって中断を余儀なくされたが、それ以外は滞りなく終わり、王子アテュスは幸福の只中に居た。新妻は素直で可憐で、少し恥ずかしがり屋ではあったが王子を心から慕っており、夫婦は日々その絆を深めているようである。国の未来は極彩色で彩られているように見えた。
 それから一月程経った頃。自然災害の為に山に餌が無くなって、大きな野猪が人里を襲い田畑を荒らして行く被害が報告されるようになった。里長は人を集めて狩ろうとしたが、狡猾な獣は却って人々を翻弄し、幾人もの若者がその牙の犠牲になった。万策尽きた里長は王に救いを求めた。
「私どもの手には余ります。どうかお慈悲をもちまして、軍隊を派遣下さい。かなうなら、狩りの名手御子息アテュス様を」
 里長の憔悴しきった顔を見て王は躊躇したが、その脳裏にはあの夢がまざまざと迫ってきていた。
「里長よ。息子は妻を娶ったばかりでもあるし、今は遣れぬ。他の狩りの名手に行かせるゆえ、許せ」
「アテュス様なれば必ずや、と。しかしそれでは仕方ありますまい。我らは一刻も早いご派兵を心より待ち望んでおりまする」
 礼儀正しく一礼して去って行く里長を見遣りながらもの思いに耽っていると、涼しげな声が王の深い思考を遮った。
「父上」
 人懐こい微笑みは万人を魅了すると思われた。青年らしい溌剌とした気性が仄見える。適度に日に灼けた肌はしっかりとした筋肉を覆って瑞々しく張り詰めていた。平均より少し背は高いだろうが、ひょろっとした感じは与えない。
「今のはミュシア人の里長では? 困ったような顔をしておりましたが、何かあったのですか?」
 明るくハキハキとした物言いは、性格の素直さを感じさせて快い。律動的な動きは肉体の健全な成長を示しているかのようだ。王子アテュスは今まさに人生のもっとも華やかな日々を送っていた。
「大したことではないのだがな。野猪が出て田畑を荒らしまわっているので軍隊を派遣して欲しいと言ってきた」
 何の気なしにそう答えると、アテュスは身を乗り出してきた。狩りは彼の好むところである。ましてや滅多に居ない程の大きさの猪では興味を惹かれない方がおかしいだろう。青年らしい好奇心を当然ながら刺激された彼は、自分が行きたいと言い出した。
「アテュスよ。出来ればお前には行かせたくないのだ」
 国を思う王としての立場と、父として子を思う立場がクロイソスにはあった。そこで夢の話を聴かせ、狩りを断念するようにと伝えたのである。
「しかし父上。猪には牙はあっても槍はありませぬ。ご懸念は無理からぬこととは存じますが、此度は行かせて下さいませ」
「ほ。一本取られたな。止むを得まい。だが、十分に注意して行くのだぞ。そうだ。あのアドラストスも連れて行くと良い。彼にはいい気分転換になるであろうし、何よりお前を守ってくれるに違いない」
 頼もしく成長した息子を慈愛の眼差しで眺め、王は出立を許可した。

「アドラストスよ。父として、頼みたいことがある」
 王の突然の訪問に驚きを隠せぬ青年は、恐縮しながらも王を迎え入れた。
「先日、嫡子のアテュスが槍によって死ぬ夢を見た。野猪に槍はない、と息子は猪狩りを望んでいるのだが、父としては夢の恐怖が忘れられぬ。どうか、あれを守ってはくれまいか」
 父としての慈愛に溢れ苦悩に満ちた表情に、アドラストスは故郷の父を重ねた。誤ってのこととはいえ、兄弟を手にかけたのはまぎれもない事実。被害者と加害者の両方が自分の子という現実は、父にとって耐え難いことだったに違いない。
「お顔をお上げ下さい。誤って兄弟を手にかけたこの身を、王は厭うことも無く受け入れて下さり、穢れを祓って下さった。私はその恩人に報いたいと存じます」
「行ってくれるか。お前が断れぬのを判っていながら頼むのは卑怯なことだと判っているのだが」
「父君としてご子息を思うのは当然でございます。私の力の及ぶ限りご子息をお守り致します」
 力強い青年の言葉に、王は安堵した。
「どうか、あれを頼む」
 その姿に、年老いた父の面影を見たアドラストスは、深く肯いた。

 猪狩りの部隊は、アテュスを指揮官として、数十人程度の規模になった。里長は飛び上がって喜び、「アテュス様がおいでになったからには、最早あの大猪もただではすまぬぞ!」と息巻いている。国中の期待を背負う貴公子が自ら出て野猪退治を行うのである。一行の意気は上がりつつあった。里長の報告を受けて待ち伏せをかけ、罠を張って息を殺す。
「居たぞ!」
 哨戒に当っていた者が、鋭く叫んだ。
「こっちだ。囲め」
 逃げ場を失った野猪は包囲され、その囲みは徐々に狭められつつあった。
 動きを止められた野猪は、何かを企むような狡猾な面構えであたりを見回している。その目が一点に据えられた。その先には王の愛息アテュスがいる。
「アテュス殿!」
 猪の突進に気付いたアドラストスが声を掛け、危うく牙から逃れたアテュスは「追え!」と短く命令を下した。
「アドラストス殿、反対側から回り込むので援護して欲しい」
 出来れば隣に居た方が猪から守れるのだが。アドラストスは思ったが口には出さず、即座に肯く。二人は大猪を挟んで左右に展開し、その進路に従って平行に走った。体格優れた二人に追いつけるものは多くはない。猟犬が三頭ほど、漸く二人の後を追いかけてくるばかりである。猪は闇雲に走っているように見えた。アテュスは右側を、アドラストスは左側をほぼ等しい距離を置いて走る。その時、大猪が急激な方向転換を行った。アテュスの居る右側へ。アドラストスは慌てて小槍を猪の足に向かって投げつけ、その背に飛び乗って弾みをつけ、力ずくで引きずり倒した。
「!」
野猪は盛んに抵抗を続けている。長引かせればこちらの負けとなるだろう。長槍を構えてその心臓を目掛けて突き刺す。
 凄まじい咆哮が谷間に木霊した。それを聴いて力を漲らせた味方がようやく追いつき、鬨の声を上げようとしたが、再び大猪は猛烈な勢いで抵抗した。既に心臓は貫かれ、辺りは血の海である。それでも生存本能がそうさせるのか、アドラストスを振り落とそうとした。次の瞬間、猪の右足が強く地を蹴り、そこにあった槍が宙を飛んだ。アドラストスの腕を掠め、張り詰めた若い筋肉に細い糸のような傷を作った。青年の劣勢を見て、王子をはじめとした数人が駆け寄って来た。大猪は血まみれの体をぶるぶると震わせ、アドラストスはついに地面に落ちた。その手に細長いものが触れた。
 野猪の咆哮が辺りに響き渡った。前足を高くふりあげ、仁王立ちになった猪の牙が日を受けて煌く。最早これまでか、と右手に触れた何かを猪に向けて投げようとした。次の瞬間、大猪は崩れ落ちた。事切れていたのである。しかしアドラストスの槍は既にその手を離れていた。
「王子!」
「アテュス殿!」
 標的を失った槍はそのまま飛んで、将来を約束された青年の胸に吸込まれていった。かくして、父王の夢はここに実現したのである。それは、デルフォイの巫女が預言していた、かのギュゲスによって横死を遂げた王カンダウレスの「報復」の一であった。

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