第一章イオニアの華

二、騾馬の王





 物いわぬ息子をリュディア王クロイソスは涙とともに出迎えた。その遺体の傍に項垂れる青年を見付けても、掛ける言葉は見つからぬ。私を処刑して下さい。そう涙ながらに訴えかける青年の姿は、愛息を失ったばかりの父王クロイソスには、冥府の王ハデスにも見紛うものだったけれども、彼はその恐怖に堪えた。
「いや、これはそなたのせいではない」
 夢を見せた、どなたかの神の仕業なのだ。我が子を喪うことは不可避のことだったのだろう。と。まるで自分自身に言い聴かせるような物言いに、青年は心を締め付けられるような思いがした。王子アテュスの死など、望んではいなかった。王子を愛する父王の為に彼を救いたいと思っていた。アドラストスの父は兄弟を死なせた彼を追放したが、クロイソス王は恩を仇で返してしまった彼を責めようとはしなかった。
「そなたとて、望んでそうした訳ではないことは、良く判っている。それにそなたを処刑したところで息子は帰っては来ない。そなたの父君の怨みを買うだけ。ただ、憎しみの連鎖を繋ぐだけだ。たとえ神々の王ゼウスといえど我が子を死という運命から解放することは出来なかった。ましてや、人の王など…」
 自嘲するかのような台詞は、青年の身に染みた。
「私を殺して下さい…!」
 ふりしぼるような声だった。二度の過失、それも取り返しのつかぬ過失を重ねたことは、彼の心に深い傷となって重くのしかかっていた。
「お願いでございます。王よ。どうか、私を…!!」
 しかしクロイソスは最早それ以上の言葉を掛ける心の余裕を失っていたようである。ただ静かに首を横に振ると、葬儀の支度の為に館へ戻って行った。青年は一人取り残されて涙にくれた。
「神よ、神よ。私は取り返しのつかないことをしてしまった。これが私の運命なのか? 人を過失で死なせることが? 一度目は自分の兄弟。二度目は穢れを祓ってくれた恩人の愛息。私はどこまで呪われた運命を生きれば良いのだ? いっそ私、この私こそが…!」

 翌日、葬儀は盛大にかつしめやかに営まれた。王家歴代の墓へ葬られる王子アテュスは、数々の財宝とともに豪奢な柩におさめられた。薔薇色の柔らかだった頬はすっかり冷たくなって、大理石よりもなお固いように思われた。見守る父の目前で地中深く埋められた青年の柩。嗚咽を堪えるような吐息がここかしこから響く。国の未来を担う筈だった王子アテュス。その命を絶ったのは、父王が情けをかけ穢れを祓った客人であった。
「アテュスよ…」
 腫れあがった瞼は痛々しい程だったけれども、逝った息子の眠りを妨げることは出来ぬ。
「そなたを救えなかった、この愚かな父を許してくれ…」
 豊かな未来はどこまでも続く筈だった。国の夢と父の希望をも彼は忘却の川(レテ/ギリシアではこの川の水を飲んで現世の記憶を失い冥府へ行くと考えられていた。所謂「三途の川」の一つである)の向うに持って行ってしまったかのようである。葬儀を終えた後の墓はひっそりと静寂の中に沈んでいた。
「アテュス殿…」
 身を清めたアドラストスが墓前に居た。思いつめたような色はすっかりと消え、何か吹っ切れたようなすっきりした面持ちを浮かべている。青年は短剣を首に突き立てた。凄まじい勢いで吹き出した鮮血は墓前の土を染め、深く深く大地(ガイア)に染みこんでいく。
「私は、ようやく…」
 脳裏を走馬灯のように駆け巡るのは、望まず意図せずして己の手にかけてしまった兄弟と、彼の存在をもて余して追放処分にした父の笑顔である。それはまだ幼い頃に、二人で仕留めた兎を父に捧げた時の記憶だった。やがてその体がゆっくりと傾いで崩折れていき。大地は青年をしっかりと抱きとめた。
「……」
 青年の呟きを聴いたのは、草木だけだった。

 翌朝、行方知れずの客人を探しに来た重臣が見付けた時には、血の海に横たわる青年は永久にこの世の人ではなくなっていた。王は青年を救えなかった自らを責めたが、重臣は首を横に振った。
「恐らく、アドラストス殿は最早己が誰も傷つけずに済むことに安堵していたのでしょう。その死に顔は、まるで無垢の赤子のように安らかで穏やかなものでした」
 少なくとも、アドラストス殿本人は、自分の死を喜んでいたと思います。彼はそう締めくくった。

 愛息アテュスの死後、未来への希望を断ち切られて、リュディア王クロイソスは絶望の只中に佇んでいた。その彼が神託に凝りだしたのは、夢の「お告げ」によって息子の死を知ったせいかも知れぬ。戦馬の嘶きは近くまで聞こえてきていた。新たな国が勃興しようとしており、それは彼のごく近隣の国を制圧して支配下に置いたばかりである。彼はどういう方針で国を運営したら良いのか、自信を失っていたものかも知れぬ。彼はヘラス(ギリシア)各地の有名な神託所に神託使(テオプロポイ)を一斉に派遣した。神託を求める日にちを、その日から百日後と定め、財宝を献納して神託を伺わせた。言わば、彼が考案した神託所のテストである。彼自身が決めた日に、彼がサルディスで行っていることを当てさせるというもので、ある意味涜神行為と言われても仕方ないが、彼としてはより正確な神託を与えるところを知りたいと願っての行動だろう。帰国した神託使のもたらした回答……テストに対して彼自身が正確だと判断した神託は二つ。そのうちの一つ、正確さのあまり彼が兜を脱いだという神託を与えたデルフォイに、彼は国と己の命運を委ねることになる。

 クロイソスが河を渡れば大帝国を滅ぼすだろう。デルフォイから押戴いた神託にはそうあった。人というものは都合の悪いものに意図せずして蓋をする性癖がある。クロイソスもまたその性癖を十分以上に所有していた。神託というものの面白さは、ギャンブルに慣れぬ者がビギナーズ・ラックを経験するのに似ているのかも知れぬ。彼は神託を請いまた財宝を献納する日々を送っていた。これだけのものを捧げているのだから、神々の恩寵もまた素晴らしいものになるに違いない。彼はそう思っていたようである。彼には夭折したアテュスの他にもう一人、言葉を発することが出来ぬ子がいたが、その子の為に得た神託は「子の声を聴くことを欲するな」というものであり、周囲は首を捻りつつもその解釈については「この子は声を発することが出来ずに一生を終えるようだ」との見解に到達したようである。その神託の真意を彼らが知るのはもう少し先のことであった。

 クロイソスの姉妹アリュエニスが嫁いだのは、メディア王アステュアゲスである。リュディアとメディアの間にちょっとした諍いが起こり、その和平の為に計画された典型的政略結婚であった。クロイソスの父であるアリュアッテス王とアステュアゲスの父キュアクサレスによるものであり、その講和は紀元前五八五年に結ばれた。それはミレトスのタレスが日蝕が起こることを預言していた日であり、現在の天文学の研究によって五月二八日であることが判明している。花婿アステュアゲスはそれより以前に娘を二人儲けていて、うち一人アミュティスはカルデア王国(新バビロニア王国)嗣子ネブカドネザルに嫁いでおり、いま一人のマンダネはメディア辺境の一領主に過ぎぬアンシャン王カンブージャに、父の意志によって嫁がされていた。王女アミュティスの嫁いだ王子が数年後に王位を継いだネブカドネザル二世であり、彼は愛する妃の為に世に名高い「バビロンの空中庭園」を造営することになる。もう一方の王女マンダネとアンシャン王との間に生まれた子がクル。ペルシア帝国を作り上げたキュロス大王とは彼のことである。

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