第一章イオニアの華

四、スキュティア遠征




 スキュティアの三王は頭を寄せて考えていた。三人とも長髪多鬚で頬骨が高い。思いおもいの姿勢を取りつつ、時々視線を交えていた。天幕はそれなりの広さがあって快適であるが、重苦しい雰囲気があたりに立ちこめている。はるか古の王が三人息子に国を分割統治させたので、三王は縁続きであるが、それはもはや既に遠い昔のこと。それでもそれなりにやってこれたのは、時折娘を互いに嫁に出し合うなどして血の繋がりを保つ努力をしてきたことと、言語や文化生活基盤が共通のものであることが大きかった。スキュティア人は遊牧を生業とし、エウクセイノス・ポントス(黒海)沿岸に植民したヘラス(ギリシア)人と盛んに交易していた。三王の前にぶら下がっている議題は、ペルシア王ダレイオスからの降伏勧告である。一人の王が重苦し過ぎる溜息を、ゆっくりと吐きだした。
「かなりの勢力と聞き及んでいる」
「近隣諸国の援助がなくば……我らスキュティア独力で戦うことは流石に難しかろうな?」
「さすれば、周辺諸国を巻き込み、スキュティア奥地へ誘いこんで、撹乱し殲滅させるのが上策ではないか?」
 三王は忙しなく視線を絡ませ合った。その中に微妙な駆け引きが含まれている。単独の民族ではなく、自分の部族のみでダレイオスを撃退出来れば、他の部族はその部族に従わざるを得なくなる。そう思わぬ者はない。だが事実上の問題として、兵力に彼我の差がありすぎる。
「諸王に使者を」
「うむ」

 スキュティア近くの諸民族の王たちもまた、所と時とを変えて協議していた。ダレイオスの今回の標的はスキュティアである。ならば、それに関わり合いを持たぬ方が良いだろうという結論に落ち着こうとしていた。何より、遥か昔のこととはいえ、きっかけを作ったのはスキュティア側であるといえなくはない。しかし、言いがかりをつけてきた、野心溢れるダレイオス王がそれだけで満足するだろうか? 途中にある国や民族を征服することはほぼ間違いないだろう。ならば関わり合いを持たぬよう努力してもいずれは呑み込まれていく運命になりはしないか。消えぬ危惧が諸王の頭を過ぎった。一人の王の側近がそっと近づいてきた。王の耳元に囁きかけると、王の顔色が緊張を深めたものとなった。
「どうされた?」
 隣にかけた別の王が訝しげに訊ねる。
「スキュティア三王からの使節団がやってきたと」
 一座に暫時沈黙が降りた。
「ふむ」
「良かろう。話を聞いてやろうではないか。その言い訳をな。…通せ!」
 使節団長は初老の男だった。若い男では重みがなく、軽んじられる恐れがあるからだろう。屈強な体格と眉尻に残る深い傷跡は、かつて男が歴戦の勇士であった過去を無言のままにしのばせた。
「スキュティア三王より、諸王方に援軍の要請を申しあげる」
 張りあげた訳でもないのに良く通る声は、鍛練の深さを思わせる。その声は柔らかさをまといつつ、強靭な精神に裏打ちされていた。団長は淡々と、諸王との歴代の友誼について、そしてまたダレイオスの野心について語った。途中、スキュティアに何の関わりも持たぬトラキア人やゲタイ人を征服して向かっていることが延べられたとき、それを知らぬ幾人かの王から感歎するような吐息が漏れた。ダレイオス王がもし恨みを晴らす為だけにここまでやってくるというのなら、他の民族には手を出さぬのが筋。もし今圏外に逃れて座してスキュティアが滅ぶのを座視していれば、やがて諸族もまた全て残らず同じ憂き目に遭うだろう。そうなることのないよう、団結してダレイオスに当るべしと団長が語り終えたとき、満座の半数はその意見に傾いていた。
「ならぬ!」
 まるで研ぎ澄まされた剣のように、鋭く言葉を発したものがあった。
「その男の言葉に惑わされてはならぬ。もしそなたらが、先に手を出していなくば、故なき侵略に対する抵抗として我等もその戦いに参加しよう。だが、此度はお主らに非があること、明々白々ではないか。お主らにペルシアを支配することを許した神々が、翻ってペルシアに同じ行為を以って報復することを許したに過ぎぬ。我等は今まで一度もペルシアにかようなことを行ってはこなかったし、これからもそのつもりだ。だがもしペルシアが我等を支配しようと攻め込んできたなら、それを甘受せずに迎え撃つだろう。だがそれを見極めるまでは動くまい。スキュティアに巻き込まれて無益な戦いに一族を巻き込まれてはなるまいぞ。スキュティアの為に大事な民を喪う義理はない」
 その王はそう言い終えて立ち上がり、大股で歩き去った。諸王のほぼ半数が立ち去った王に同意してその場を去った。残った者はスキュティアに援軍を約束したが、正直どこまで信用出来るものやら。何よりそれだけの援軍でペルシアを撃退出来るとは思えない。だが焼け石に水でも援助がないよりはある方がいい。敵対されるよりは。団長は援軍を約束してくれた王たちに深く謝意を示した。

 三王の許へ使節団長の報告が届けられると、方策が練り直されることになった。兵力の差は歴然としているし、諸王の援助が半分しか得られなかったのであれば、正面からの戦いは避けるべきであろう。スキュティア全軍を二手に別け、ゲリラ戦に持ち込んで少しずつペルシアの勢力を削ぎ、消耗させて撤退させることを狙いとした。戦っても得られるものがないなら、別に勝つ必要はない。負けなければいいのだ。その瞬間、方策が決定したのである。

 ペルシア軍が進んで行く先には、井戸も泉も見つからなかった。おまけに草の根ひとつ生えていない、不毛の大地が続いているようである。ところどころに湿った土が見える小さな穴がある。途中の川や泉で汲んで持ってきていた水は既に底をつきはじめている。残っているのは王専用の水だけだ。これは、ペルシアのスーサを通って流れるコアスペス河から汲んできた水である。ペルシア王は常にこの河川の水しか飲まない。コアスペス河から汲まれた水を一旦沸騰させて専用の銀の器に入れ、四輪の騾馬の引く車に乗せて運ばせるのである。一人の人間の為のものでも、それが六十日を越える量となれば当然半端な量ではない。しかしそれは全て王ダレイオスだけのものである。他の人間が口にすることは一切許されぬものであった。それを一口でも口に出来れば。そう思う兵士が一人や二人ではなくなりつつあった。特に水を運んでいた者たちは、それが死と隣り合わせになる行為だと判っていても、底が見える程に減った備蓄の水を見る度、豪奢な車に載せられた豊かな水を思って咽喉をごくり。と鳴らさずには居られない。ペルシア人の食事は一日一度、ただしその一度の食事はかなり盛大である。多少絶食をしたとしてもそれが体に与えるダメージは然程大きくはない。だが、水はそうはいかぬ。人間の体の大半は水分である。餓えるよりも咽喉の渇きの方が深刻な影響を与えるのだ。兵士らの不満は高まりつつあった。水を捜す必要のないダレイオスを見つめる護衛兵の目が、徐々に殺気を帯びはじめていることに、まだ若い王は気付いてはいなかった。

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