第一章イオニアの華

四、スキュティア遠征




 三王の軍をニつに分割することについて、兵力をただ人数で分割するのではなく、指揮系統の混乱を招かぬ方法として、ニ王の軍を合流して一つとし、一王の軍をもう一つの軍として動くことに決定した。ニ王軍にゲロノス人とブディノイ人を加え、ペルシア軍よりも凡そ一日の行程分だけ先んじて進む。いや、行動内容を考えれば撤退である。
 スキュティアでは、女子供の非戦闘要員と食糧と家畜とを、作戦行動に必要な分だけを取り分けて、北へと移動させていた。更に精鋭部隊を選りすぐり、前衛隊を結成する。イストロス河から三日程の行程を隔たった地点で前衛隊はペルシア軍を発見し、先の計画通りに一日分の行程だけ先んじて野営を行った。当然ながらペルシア軍は前衛隊の姿を認めると、その後を追って進軍していく。それが十日程も続いた後で、ダレイオスは全軍の停止を命じ、オアロス(ヴォルガ)河畔に駐屯させた。一旦城砦を築きそこを拠点にと考えていたのも束の間、ペルシア軍に追跡「させていた」前衛隊が全くペルシア軍の前に現れなくなった。ダレイオスはかの前衛隊がスキュティアの全軍であり、西方へ逃走したと考えはじめていた。全速力でペルシア軍を進めてダレイオスがスキュティア本土に到達した時、待ち構えていたのはニ王軍である。前衛隊と同様に一日行程の間隔をおいてダレイオスに後を追わせる。そして、同盟を拒んだ諸国に逃げ込んで行った。かねてからの、計画通りに。

 メランクライノイとアンドロパゴイの国が、スキュティア軍とそれを追うペルシア軍によって蹂躪され、民は逃亡を余儀なくされたとの通報を受けて、アガテュルソイの王は威嚇を込めて伝令をスキュティア三王のもとへ派遣した。アガテュルソイの王は侵攻軍を撃退する用意を整え、国境の防衛を固める。メランクライノイとアンドロパゴイ、そしてネウロイの三国の王は先に協議の席で吐いた威嚇の言葉も既に念頭にはなかったものと見える。ひたすら無人の荒野を目指して遁走をはかったと聞いて、アガテュルソイ王は隣国の王の不甲斐なさに呆れながらも、逃げてきた民があったら保護するようにと、きびきびと臣下に命令を下した。

 援助を拒んだ国々を、戦いに巻き込むことには成功したとは言い切れぬ。ペルシアに対して自ら進んで戦おうとはすまいが、同盟を拒否した国々に向かって撤退するようにすれば、ペルシア軍は知らずしらずのうちにその領土を侵すことになる。自らの領土を侵されたとなれば、厭でも応でも戦わざるを得まい。と判断していたのだが。思っていたよりもそれらの国々は柔弱の国であったようだ。早々にスキュティア軍の入国を拒否したアガテュルソイの王は流石に頭が切れると見えた。他国の惨状を知ってスキュティア三王の狙いに気付き、早速に伝令を寄越したあたり、若いとは聞くが切れ者であることを感じさせた。可愛いげはないが、王としては有能と言えるだろう。自国民を巻きこまぬという意味において。二王軍は、入国拒否されたアガテュルソイの方をいまいましげに眺めつつも、ネウロイの国からスキュティア本土にペルシア軍を誘導することに決めた。
 ペルシア軍を翻弄しつづけるスキュティア軍の行動に、業を煮やしはじめていたダレイオスから、騎兵の一人が派遣された。それは、戦うか、従うか、どちらかを選べという内容である。スキュティアのニ王は顔を見合わせてにやり。と笑った。スキュティアには、荒らされるのを恐れるごとき町や果樹園はない。戦いを急ぐ理由とてない。強いて荒らされることを恐れるものは、先祖の墓くらいである。しかしそれをダレイオスが発見することは困難を極めるだろう。それが可能なら、試みるが良い。そうダレイオスへの伝言をことづけた。
「我が崇めるは先祖と神のみ」
 二王はそう嘯いた。

 スキュティア一王軍は、イストロス河畔の警備に当っているイオニア軍との交渉に当るべく出発した。ニ王軍はペルシア軍引き回し作戦を中断し、兵士が食糧を求めて出動する時を狙って襲撃を開始した。ゲリラ戦である。昼夜を分かたず出没しては攻撃してくるスキュティア軍に、ペルシア軍は息をつく暇もなく防備に当たらねばならない。ましてやスキュティアにとってはここは庭のようなものである。スキュティア軍は神出鬼没である。それに手を焼くペルシア軍は、スキュティア三王の掌上で踊らされているかに見えた。
 二王の軍が新たに考案した作戦は、些かならず奇妙なものであった。それは、少数の家畜と牧人をペルシア軍に捕捉されやすい場所に置きざりにし、自分達は移動する。というものである。少数ながら戦果としてペルシア軍はこの家畜を手にいれ、意気が上がる。そしてまた暫時何もない状態があり、また適当なところで少数の家畜と牧人を…ということを繰り返したのである。一度や二度なら良かろうが、何度も重なれば、戦果と言える程のものではないことに改めて気づき、ペルシア軍は当然ながら途方に暮れることになった。混乱し、またその目的が何なのかを理解出来ず苦しむことにもなった。客観的に見れば、寧ろさっさと追い出した方が良いと思いがちだが、スキュティア三王は長く異郷の地をペルシア軍が彷徨って、万事に事欠くようにしむけることを良しとしたようである。その思惑が当ったかどうかはともかく、ダレイオスは思考の迷宮に陥った。それを知ってスキュティア三王がペルシア軍中に贈ったものは、小鳥と鼠と蛙に五本の矢である。ダレイオスがその贈り物の意味を問うと、使者はそれを渡すと早々に立ち去るように命じられただけであると答え、またペルシア人に知恵というものがあるなら自分で判断すれば良かろうと冷然と言い放って去った。贈られたペルシア軍ではその意味を解釈しようとした。ダレイオスの見解はペルシア軍に従うという意味であろうという如何にも彼らしい発想であったが、それならば「土と水」のそのものを贈る方がより正しいだろう。しかしペルシア王の傍近くに控えた七重臣の一、ゴブリュアスの意見はそれとは真逆のものであった。
「これは、鳥のように空を飛ぶか、鼠のように地へ逃れるか、蛙のように水の中へ飛びこむかしない限り、矢に当って命を落とすぞという、スキュティア王の恫喝ではと」
 普段はどちらかというと豪胆な行動が目立つゴブリュアスであったが、その意見はスキュティア王の動きを考えれば、納得出来ると言えた。

 丁度その頃。スキュティア一王の軍は、イストロス河畔に向かっていた。目的は、ダレイオスの帰路となる、船橋である。それを守っているのは、イオニア部隊。ペルシアの圧政の下に喘いでいる人々である。交渉の余地は十分以上にあると、一王は判断していた。
 使者は船橋の近くまで来て、戦意がないことを知らせるために鎧や武器の類を、地面に置いて近寄る。当初警戒していたイオニア兵も、丸腰で来るらしいスキュティア兵が害意を持たぬことに気付いて、表情を少し和らげた。数歩程の距離を置いて立ち止まった使者に
「何の用だ」
「お主らにいい提案を持ってきたのだ。指揮官殿のところへ案内して貰いたい」
 そう言った使者はにやり。と笑った。警備兵二人は顔を見合わせ、指揮官に使者が来た旨を伝えさせた。

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